馬頭観音堂
大平の馬頭観音
馬頭観音は高倉山の登山口の手前にあり、折木大平には武士たちが馬の訓練をしていた馬場があったと言われており、現在ここには馬頭観音を祀る観音堂があります。
かつて数多くの絵馬が奉納されていました。
また観音堂脇の建物には、松下朝見作と言われる実物大の木馬が納められています。
むかし馬は人々の暮らしの中でとても大切にされており、馬の供養や無病息災を願う人々が訪れていました。
馬頭観音の伝説
木馬物語
その昔、それは日露戦争最中の頃でした。
折木村の小さな農家に「こなみ」という10歳の女の子がいました。「こなみ」は生まれて間もない子馬に「タカ」と名付け大変かわいがり、またタカも「こなみ」に良くなついていました。
当時は馬が軍馬として徴発される時代です。タカの母親馬も戦地へ送られてしまいました。「こなみ」と家族は残されたタカを大切に育てていました。ある日タカを軍馬として提供すように軍から要請がきてしまいました。
「こなみ」はタカを残してほしいと何度も懇願しましたが、軍も役所も「こなみ」の願いを聞くことはありませんでした。
そしてある朝…「こなみ」がタカの餌にするための草刈りに出かけた隙に軍はタカを連れて行ってしまいました。
これを知った「こなみ」の嘆き悲しみはどれほどものものであったでしょう。それからというもの「こなみ」はほとんどものを食べることなく、日に日にやせ衰えていきました。
そして、雨の日も風の日も観音堂の木馬の前で一心に祈る「こなみ」の姿を見て村人は涙を流したといいます。
タカが連れていかれて三ヵ月ほど経った木枯らしの吹く寒い朝、「こなみ」が観音堂の前で倒れているのを村人が見付けたとき、「こなみ」は既に冷たくなっていました。
それから間もなく、観音堂の木馬が居なくなったことに気付いた村人が大騒ぎしていると、ひとりの村人が「木馬が東禅寺の下のトンネルで汽車を止め乗っていくのを見た」というのです。
木馬は「こなみ」の死をタカに知らせるため、そして多くの仲間が死んでいくなか自分だけ生き残って申し訳ないとの気持ちから、戦場へ行ったのではないかと村人は語り合ったそうです。
それから数か月後、木馬は元の観音堂に戻っていることに村人は気付きました。
観音堂の裏には鉄砲弾の跡がある笹が生え、この笹を食べさせると馬が元気になると村人はお参りに来たときは必ず持って帰ったと言われています。
村人は「こなみ」の霊をねんごろに弔うとともに、観音堂の木馬をなお一層崇拝するようになりました。
このお話はただ単に木馬の物語、あるいは人と動物との繋がりだけではなく、先人が諸々のものをいかに深い愛情を持って見詰め、そして語り継いできたかがよくわかる物語です。
観音堂の傍の石碑には軍馬の提供者と馬の名まえが刻まれています。