高倉山
高倉山
高倉山は広野町の市街地にあり、標高122.5メートル、国道6号線からも山を見る事ができます。
遊歩道は史跡を見ながら、ゆっくり歩いても往復で40分。初心者にも登りやすい山です。
浜通り地域は古くは岩城氏に支配されており、高倉城は、その支配下にあった猪狩筑後守が治めていました。慶長7年(1602年)関ヶ原の合戦に参加しなかった岩城氏は徳川家康に領地を没収され、高倉城も廃城になったと言われています。
広野町には高倉城のほかに折木城、東禅寺館(折木字高萩)、小松館(浅見川字湯沢)など4箇所の中世城館があったとされています。その中でも高倉城は規模も大きく遺構が明瞭に残されていることから、広野町は昭和50年に町の史跡として指定しました。
トレッキングコースの魅力ポイント
高倉山は広野町の市街地にあり、標高122.5メートル、国道6号線からも山を見る事ができます。
遊歩道は史跡を見ながら、ゆっくり歩いても往復で40分。初心者にも登りやすい山です。
高倉城の歴史
岩城の領主岩城氏は、文明6年(1474年)楢葉郡(ならはごうり)を治めていた楢葉氏を制し、この戦いで功績のあった家臣猪狩筑後守隆清は、楢葉郡を与えられ楢葉城に居城しました。
楢葉氏の滅亡により岩城氏と相馬氏の領城が接することになり、その後抗争は繰り返されるようになりました。
天文3年(1534年)岩城氏の領主重隆の娘・久保姫を相馬氏の仲介により伊達氏との縁組を整えようとしたのですが、岩城重隆がこれを拒否し、娘を白河城主に嫁がせようとしたため、相馬顕胤は激怒。岩城領の富岡城・楢葉城をはじめ広野や久ノ浜・四倉を攻略してしまいます。
広野以南まで攻め込まれたのは初めてのことで、劣勢の岩城氏は仕方なく、久保姫を伊達氏の嫡男・晴宗に嫁がすことを条件に、相馬氏と和睦しました。この結果、広野・久ノ浜・四倉は岩城領に変換されましたが、楢葉・富岡は相馬領となってしまいました。
それまで楢葉を治めていた猪狩氏は、相馬領との新しい国境である広野に移り、相馬の侵攻を防ぐ最前線基地、北の抑えとしてこの高倉城を築いたものと思われます。
それから36年後の元亀元年(1570年)に岩城氏は楢葉城・富岡城を奪還し、猪狩氏は再び楢葉城主に返り咲いています。
高倉城の井戸と日の出の松
高倉城の軍が敗れていよいよ落城となったおり、奥方様は金のニワトリの置物を殿様から預けられ、落ち延びるように言われましたが、金のニワトリはそのまま置かれ、奥方様は井戸に身を投じたと言われています。
その後高倉山で光るものを見つけると金のニワトリだと言われましたが、誰もそれを見つけることはできませんでした。
また一方では、その井戸は横穴が掘られており、その先は浅見川の河口奥州浜街道沿いにある日之出の松のそば、姥嶽権現堂に繋がっていたとも言い伝えられています。
その井戸も、その後多くの人が探してみたのですが、その存在は現在でも謎のままです。
高倉城の伝説
高倉城の殿様猪狩氏は、その祖を小野氏として小野姓を名乗っていました。
この小野家に八郎という豪の者がおり、殿様に従い富士の巻き狩りに出かけた際に、突然現れた大猪を見事に射止めたことから「猪狩」の姓と家紋を許されたことが、猪狩氏の始まりといわれています。
家紋については、この時八郎は11歳であったため「十一の力」とつけられたか、あるいは当時16歳で殿様から万人に優れているとして「十万」の家紋が許されたという説があります。