楢葉八幡神社

ページ番号1004377  更新日 2024年2月26日

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楢葉八幡神社

楢葉八幡神社
楢葉八幡神社

楢葉八幡神社は五里八幡とも称し、古く康平年間に源頼義が勅を奉じ、奥州の安倍貞任・宗任平定の時、通行する街道筋に鎌倉の鶴岡八幡宮を起点として五里毎に石清水八幡宮を勧請したことによります。


福島県に入って、いわき市植田に植田八幡宮を、五里隔てて平に、更に五里を経てこの広野に八幡宮が建立され、楢葉の総社故に楢葉八幡宮と呼ばれたということです。


楢葉八幡神社の由来

広野町の西方に聳えている五社山 (685メートル)は御社山とも書かれますが、古くは楢葉山・楢葉岳とも呼ばれ、もとは楢葉八幡宮が鎮座していたと伝えられています。
平安時代の永承五年(1050)に、東北の地では、蝦夷の豪族安倍氏が陸奥国の国府を攻め、その後も蝦夷の大きな反乱が続きました。
最初の国府襲撃は、事件後、新たに陸奥守に任命された源頼義によって一応鎮定されますが、天喜年間になると、再び、安倍一族の頼時とその子貞任・宗任の兄弟による反乱が起きます。
この度の反乱も、再度の国司兼鎮守府将軍に任ぜられた頼義と、その長子義家(八幡太郎)によって、衣川の戦いを最後に鎮圧されます。
この一連の事件を「前九年前の役」と呼んでいますが、永承六年、最初の鎮定に赴く源頼義が征途のなかで、この広野の地に聳える楢葉山で征討の祈願をしたと伝えています。
また、康平五年(1062)には、再度の反乱を鎮めて都に帰る途中、八幡太郎義家に石清水八幡のお告げがありました。
お告げは「楢葉山の五所(五神を祀る)の霊地に石清水八幡宮を勧請して、戦いの勝利を感謝し奉幣を納めよ」というものでした。
この時に義家が勧請した石清水八幡宮のことを御社といい、その社の境内は、勝利が叶ったことに因んで叶沢と呼ばれるようになり、五神を祀って義家が神酒を醸造した跡を酒造庭と呼ぶようになったということです。

また後に、義家の御霊を、若宮八幡宮より祭祀した所は八幡林と呼ばれます。
御社の回りには多くの神々が勧請され祀られていますが、紀伊国からは熊野大権現を勧請し、その社地を熊野草(熊ノ草)と呼び、加賀国からは白山大権現を勧請し、その社地を楢頭山(楢津)と呼び、出羽国からは羽黒大権現を勧請し、その社地を黒森と呼び、山城国からは稲荷大明神を勧請し、その社地を宝殿場と呼び、源氏の白旗を白幡大明神に奉祭した地を旗巻庭と呼ぶようになります。

さらに、御社とこれら多くの社とが祭祀されている山々の総てを、宝基山と呼ぶようになりますが、これが箒平の地名の元になったといわれています。
八幡宮は、中古まではこの地に鎮座されていましたが、天文二十亥年(1551)11月27日の夜に炎上してしまい、このときに義家から受けた御朱印を焼失し、神領も無くなってしまい、八幡宮はその後、北迫村に遷宮されました。
(広野町史 通史編より)



住所
〒979-0401 福島県双葉郡広野町上北迫石名坂57
電話番号
0240-27-2097
交通アクセス
Jヴィレッジ駅[出口]徒歩25分